大判例

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広島地方裁判所 平成元年(行ウ)17号 判決 1996年3月26日

原告

岩城ミヤ子

右訴訟代理人弁護士

山田延廣

右訴訟復代理人弁護士

瀬戸久夫

徳田靖之

岡村正淳

古田邦夫

安東正美

河野聡

被告

広島中央労働基準監督署長

岡田幸三

右指定代理人

森岡孝介

外四名

主文

一  被告が原告に対し昭和六〇年七月一六日付けでなした労働者災害補償保険法に基づく遺族補償給付及び葬祭料を支給しない旨の決定を取り消す。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実及び理由

第一  原告の請求

主文同旨

第二  事案の概要

本件は、長年の間粉じん作業に従事した結果じん肺にり(罹)患し、その後併発した肺がんのため死亡した男性の妻が、労働基準監督署長に対して、労働者災害補償保険法(以下「労災保険法」という。)に基づく遺族補償給付及び葬祭料を請求したところ不支給決定を受けたとして、その取消しを請求している事案である。

一  争いのない事実

1  原告は岩城照男(以下「照男」という。)の妻である。

2  照男は、大正一〇年一〇月二三日生まれの男性であるが、長年の間粉じん作業に従事したために、じん肺にり患した。

3  その後、照男は、肺がんを合併し、昭和五九年七月六日、肺がんによる呼吸不全のため死亡した。

4  原告は、照男の死亡当時、照男の収入によって生計を維持しており、また、照男の葬儀を執行したので、労災保険法一二条の八第二項、労働基準法七九条及び八〇条に基づいて、被告に対し、遺族補償給付たる遺族補償年金及び葬祭料を請求したが、被告は、昭和六〇年七月一六日、照男の死亡は業務上のものではないとして、これらを支給しない旨の決定(以下「本件不支給処分」という。)をした。

二  争点

照男の死亡が業務上のものであるか否か

三  争点に関する原告の主張

1  照男は、長年の間粉じん作業に従事したためにじん肺にり患し、その後併発した肺がんによる呼吸不全のために死亡したものであるから、同人の肺がんがじん肺に起因して発生したこと(じん肺と肺がん発生との間の因果関係)が認められるならば、照男の死亡は業務上のものであるといえる。

そして、じん肺患者が原発性の肺がんを合併する割合は極めて高く、しかも、じん肺の病理学的状態が発がん過程を助長するという有力な仮説があり、じん肺(けい肺)の原因物質であるシリカについては、IARC(国際がん研究機関)(以下「IARC」という。)によって「ヒトに対して恐らく発がん性がある」と評価されていることなどからすると、じん肺患者が肺がんを併発した場合には、その肺がんはじん肺に起因して発生したといえるから、照男の肺がんもじん肺に起因して発生したと認められる。

したがって、照男の死亡は業務上のものである。

2  仮に、照男の肺がんがじん肺に起因して発生したとまでは認められないとしても、じん肺と肺がんとの間には極めて密接な関連性があることに加えて、照男の肺がんは、じん肺による陰影のために発見が遅れ、かつ、じん肺病変のために手術ができなかったために死に至ったものであること、照男の肺がんの原発部位及び組織型が職業性肺がんの場合に比較的高率であるとされる原発部位及び組織型と同じであること、照男の病状は、じん肺管理区分の管理四に該当し、又は管理四相当であったことからすると、照男の肺がんは業務上の疾病であると認めるべきである。

したがって、照男の死亡は業務上のものである。

四  争点に関する被告の主張

1  照男が肺がんによる呼吸不全のために死亡したことは認めるが、以下のとおり、同人の肺がんがじん肺に起因して発生したこと(じん肺と肺がん発生との間の因果関係)は認められないから、同人の死亡は業務上のものではない。

(一) じん肺患者が肺がんを合併する割合が高いとする疫学的研究があることは認めるが、これらの研究は、粉じん作業労働者ないしじん肺有所見者の中のごく一部の者を対象にしているにすぎず、対象集団による偏りや関心度による偏りを排除できていないことなどから、統計学的にみると問題がある。

また、これらの研究によっても、じん肺患者が肺がんを合併する相対危険度は四倍程度であり、粉じん暴露量と肺がんとの間の量反応関係も明らかではないことから、疫学的にみて、じん肺と肺がんとの関連性が強いとは認められない。

さらに、肺がんのようにその発生原因及び機序が複雑多岐にわたる非特異的疾患の場合、一般に、原因と結果とが明確に対応する特異的疾患と比べて、疫学的手法によって原因との間の因果関係を解明することがより困難である。

したがって、じん肺患者が肺がんを合併する割合が高いとする疫学的研究があるというだけでは、じん肺と肺がん発生との間の因果関係を認めるに足りないことは明らかである。

(二) じん肺の病理学的状態が発がん過程を助長するという仮説があることは認めるが、それはあくまでも仮説であって、未だ実証されるに至っていない。また、IARCによってシリカが「ヒトに対して恐らく発がん性がある」(グループ2A)と評価されていることも認めるが、それは、疫学調査の証拠は不十分であるが動物発がん試験の証拠は十分である場合に該当することを意味するにすぎず、右評価は、シリカの発がん性について高度の蓋然性が認められるという立場につながるものではない。むしろ、シリカについては、IARCが「ヒトに対して発がん性がある」(グループ1)と評価していない点を重視するべきである。

その他、じん肺と肺がん発生との間の因果関係に関する国際的知見及び国内的知見を総合するも、両者の因果関係については未だ明らかにされていないといわざるを得ない。

したがって、これらの見解の一部を援用しても、じん肺と肺がん発生との間の因果関係を認めるに足りない。

(三) そもそも疫学は、集団現象としての疾病の原因究明を目的とするものであり、その集団に属する個人の疾病の原因究明を目的とするものではないから、疫学的因果関係の証明が直ちに当該集団に属する個人の疾病の原因の証明となるものではない。したがって、仮に、疫学的手法によってじん肺と肺がん発生との間の因果関係を認めることができたとしても、そのことから直ちに照男の肺がんがじん肺に起因して発生したとまではいえない。

(四) 照男が長年の間喫煙の習慣を持ち続けていたこと、同人の一日当たりの喫煙本数も多かったこと、喫煙と肺がんとの間には、疫学的にみて因果関係があるとされていること、照男のような重喫煙者の場合、非喫煙者と比べて肺がんの相対危険度が極めて高いことなどからすると、照男の肺がんの発生については同人の喫煙習慣が主たる原因であると考えるのが自然であり、同人のじん肺が相対的に有力な原因であるとは認められない。

以上によると、本件において照男の肺がんがじん肺に起因して発生したこと(じん肺と肺がん発生との間の因果関係)は認められない。

2  じん肺患者に合併した肺がんについて、一般に、じん肺と肺がん発生との間の因果関係は認められないが、高度に進展したじん肺患者に肺がんが原発した場合、右肺がんについて、①早期発見が困難であり、②治療方法が制限され、③予後も不良であるという医療実践上の不利益があることから、被告は、特例として、じん肺管理区分が管理四と決定された者又は管理四相当と認定された者に原発した肺がんを業務上の疾病として取り扱う旨の行政上の措置を講じている。

原告は、照男の病状が、じん肺管理区分の管理四に該当し、又は管理四相当であったと主張しているが、関係医師の意見を総合的に判断すると、照男のじん肺の程度は、じん肺管理区分の管理三ロに該当することが明らかである。

したがって、照男の肺がんを業務上の疾病として取り扱うことはできないから、同人の死亡は業務上のものではない。

なお、原告は、照男の肺がんの原発部位及び組織型が職業性肺がんの場合に比較的高率であるとされる原発部位及び組織型と同じであると主張しているが、同人の肺がんは、右上葉部に原発した小細胞がん(未分化がん)であるところ、じん肺合併肺がんの原発部位については、右肺よりも左肺が多いとの報告や上葉部よりも下葉部に多いとの報告があり、同じく組織型については、扁平上皮がんが多いとの報告もあり、さらには、じん肺合併肺がんは一般肺がんに比べて病理組織的な差はないとの報告もある。したがって、照男の肺がんの原発部位及び組織型は、同人の肺がんが職業性のものであることを積極的に基礎付けるものではない。

第三  争点に対する判断

以下、第一項ないし第五項は当裁判所が証拠等によって認定した事実(事実認定に供した証拠等は適宜括弧内に表記する。)及び判断の前提となる法制であり、第六項は当裁判所の示した判断である。

一  じん肺の病像等(甲八、弁論の全趣旨)

じん肺は粉じんを吸入することによって肺に線維増殖性変化を生じる疾病である。通常これに気道の慢性炎症性変化や気腫性変化を伴うものとされている。更に進展すれば肺性心となって、重症例では心、肺不全を招来して死に至る。これらのうち器質性の病変は不可逆性であり、解剖学的に治癒することが期待できない疾病である。

じん肺のうち、遊離けい酸が原因物質であるものを特にけい肺という。

(なお、以下に「けい酸(又はけい酸塩)粉じん」「(結晶性)シリカ」「二酸化けい素(結晶性)」というも、いずれもけい肺の原因物質であるという意味において同義である。)

二  じん肺と労災保険に関する法制及び補償行政

1  じん肺に関する法制

じん肺に関し、適正な予防及び健康管理その他必要な措置を講ずることにより、労働者の健康の保持その他福祉の増進に寄与することを目的として、じん肺法が制定されている(同法一条)。同法において、じん肺とは粉じんを吸入することによって肺に生じた線維増殖性変化を主体とする疾病をいうものと定義されている(同法二条一項一号)。

粉じん作業に従事する労働者及び粉じん作業に従事する労働者であった者は、じん肺法所定のじん肺健康診断の結果に基づき、じん肺管理区分管理一ないし管理四のいずれかに区分して、健康管理を行うものとされている(同法四条二項)。

じん肺管理区分が管理四と決定された者及び合併症にかかっていると認められる者は、療養を要するものとされている(同法二三条)。合併症とは、じん肺と合併した肺結核その他のじん肺の進展経過に応じてじん肺と密接な関係があると認められる疾病をいう(同法二条一項二号)。合併症の範囲については労働省令で定めるものとされ(同条二項)、具体的には、じん肺管理区分が管理二又は管理三と決定された者に係るじん肺と合併した肺結核、結核性胸膜炎、続発性気管支炎、続発性気管支拡張症及び続発性気胸が合併症とされている(同法施行規則一条)。

2  労災保険に関する法制及び補償行政

遺族補償給付及び葬祭料の支給は、労働者が業務上死亡した場合に遺族又は葬祭を行う者の請求に基づいて行うこととされている(労災保険法一二条の八第一項、二項及び労働基準法七九条、八〇条)ところ、労働者が業務上の疾病に起因して死亡したときは、右にいう「労働者が業務上死亡した場合」に該当するものと解されている。そして、業務上の疾病の範囲は、命令で定めるものとされ(労災保険法一二条の八第一項、二項及び労働基準法七五条)、これを受けた労働基準法施行規則三五条、別表第一の二において、具体的に定められている。これによると、療養を要するじん肺及び前記各合併症は業務上の疾病であるとされている(同表五号)が、じん肺に合併した肺がんは、少なくとも明示的には業務上の疾病であるとはされていない。

しかしながら、労災補償行政上、じん肺に合併した肺がんが業務上の疾病であるとされる場合がある(乙一九)。すなわち、労働省労働基準局長から各都道府県労働基準局長に対して発せられた「じん肺症患者に発生した肺がんの補償上の取扱いについて」と題する昭和五三年一一月二日付けの通達(以下「局長通達」という。)によると、じん肺法によるじん肺管理区分が管理四と決定された者であって、現に療養中の者(以下「管理四で療養中の者」という。)に発生した原発性の肺がんについては、労働基準法施行規則別表第一の二第九号に該当する業務上の疾病として取り扱うこととされている。また、局長通達によると、現に決定を受けているじん肺管理区分が管理四でない場合又はじん肺管理区分の決定が行われていない場合において、当該労働者が死亡し、又は重篤な疾病にかかっている等のためじん肺法一五条一項の規定に基づく随時申請を行うことが不可能又は困難であると認められるときは、地方じん肺診査医に対しじん肺の進展度及び病態に関する総合的な判断を求め、その結果に基づきじん肺管理区分が管理四相当と認められる者(以下「管理四相当であると認められる者」という。)についても、これに合併した原発性の肺がんを右と同様に取り扱って差し支えないものとされている。

なお、局長通達に出てくる労働基準法施行規則別表第一の二第九号とは、その他業務に起因することの明らかな疾病をいう。

三  じん肺と肺がん発生との間の疫学的因果関係

1  疫学総論(甲一〇六、一〇八、乙五五の一及び二)

疫学とは、人間集団を対象として人間の健康及びその異常の原因を宿主、病因、環境の各面から包括的に考究し、その増進と予防を図る学問をいう。

疫学の方法は、基本的には人間集団中における疾病発生数を数えることである。すなわち、疾病の原因である可能性を持つ因子への暴露の有無又は暴露量別に、疾病頻度が異なるかどうか、またどの程度異なるかを観察するものである。

疫学研究結果から因果関係の有無を推論する際には多くの条件を検討することが必要であり、ただ一つの患者対照研究の結果のみから因果関係の有無を結論することはできないことに注意する必要がある。

疫学の目的が疾病の予防であることから、疫学における因果関係は、「二つの範ちゅうに属する種類の事象又は性質があり、片方の範ちゅうのものの頻度又は性質の変化に続き、他方の範ちゅうのものの頻度又は性質が変化する関係」と定義される。そして、一つの疾病について多くの原因を見いだし、それぞれの原因に対して適当な対策を行うことにより予防の効率を上げるという見地から、疫学においては、原因が単一であるとは考えず、さまざまな環境条件、宿主の状況に多くの原因を求めるものとされている。

疫学研究は基本的には要因と疾病との関連を観察するものであるが、ロンドン大学医療統計学名誉教授であるA・B・ヒルは、要因と疾病との関連を認めた場合、両者の間に因果関係があるといえるかどうかを判断するには次の点を検討すべきであるという。

(一) 強固な関連

関連の強さは、り患率比又は死亡率比などの率比の大きさで示される。

ただし、関連が強いかどうかというのは相対的な問題で、率比がいくつ以上であれば関連が強いというような基準は作れない。

(二) 一致した関連

異なった状況にある異なった集団についても繰り返し同じ関連が見られるならば、因果関係があると考えやすい。

(三) 特異的な関連

一つの原因が一つの効果(疾病)だけをもたらすという関連を特異的な関連といい、これが認められれば因果関係があると考えやすい。

(四) 時間的な関係

原因が結果よりも先に起こっていなければ因果関係があるとはいえない。

(五) 生物学的傾きのある関係

これは量反応関係のことで、暴露の量が多いほど反応の量が多いこと、すなわちり患率が高いことをいう。

因果関係がある場合は量反応関係が認められることが多く、量反応関係が認められることは因果関係があると判断するための有力な所見であるが、これが認められないからといって因果関係がないという証拠とはいえない。

(六) もっともらしい関連

これは、認められた関連が現在の生物学的常識に照らして矛盾しないことをいう。

(七) 整合性のある関連

これは、認められた関連が既に分かっている疾病の自然史や、生物学的事実と矛盾しないことを指すが、もっともらしい関連との区別は微妙である。

(八) 実験的な証拠の存在

人間集団の観察によって認められた関連が動物実験によっても同じように認められれば、因果関係があることの有力な証拠となる。

(九) 類似の関連の存在

観察された関連が既に因果関係があると認められているような関連とよく似ている場合、因果関係があると考えやすい。

これらの基準(以下「ヒルの示した基準」という。)のすべてを満たすことを実際に示すことは困難であり、また、因果関係があれば、必ずヒルの示した基準が満たされるというわけでもない。ヒルの示した基準は、因果関係があると判断するための基本的な視点、判断の際に考慮すべき点であると考えるのが適当である。

2  じん肺と肺がんとの関連に関する専門家会議による検討結果(乙一八)

じん肺に原発性肺がんを合併する症例は、諸外国では一九二〇年代より、わが国では一九四〇年代後半より報告がみられるようになり、次第にその数が増大してきたものであるが、これに伴い、じん肺とこれに合併した肺がんとの間に因果関係が存在するか否かが注目されてきたことから、労働省労働基準局長は、昭和五一年九月ころ、珪(けい)肺労災病院の千代谷慶三(以下「千代谷」という。)を座長とし、他七名の専門家によって構成された、じん肺と肺がんとの関連に関する専門家会議(以下「専門家会議」という。)に対して、じん肺による健康障害について検討するよう委嘱し、これを受けた専門家会議は、じん肺と肺がんの因果性に関するレポートを概括的に見直し、最近の知見を加えて、両者の因果関係に関する意見をとりまとめ、昭和五三年一〇月一八日、同局長に対して、検討結果を報告した。

その概要は以下のとおりである。

じん肺の原因となる粉じんの種類は極めて多く、それらによって惹起されるじん肺の病像もまた一様ではない。それらのうち、けい酸又はけい酸塩粉じんによるじん肺(けい肺)については合併例に関する報告が多いが、その他の粉じんについては情報が乏しい。したがって、けい肺を中心にこれと合併した肺がんとの関連性について検討を加えた。

(一) けい酸又はけい酸塩粉じんの発がん性

現時点においては、これを積極的に肯定するような見解は得られなかった。

(二) じん肺とこれに合併した肺がんとの病因論的因果性

(1) 実験病理学的成果

じん肺に合併した肺がんは、じん肺性変化の進展過程のいずれかの時点で発生するが、両者の間の病因論的関連性については、未だ不明の点が多い。これを解明する有力な手段として実験病理学的手法があるが、課題に即応し得る実験モデルの作成は困難であり、これまでの実験成果から得られる情報は乏しい。

(2) 病理学的検討

じん肺に合併した肺がんは扁平上皮がんが多い傾向にあるとされているが、一般の肺がんに比較して統計的に有意差はない。原発部位は、石綿肺における肺がんと同様に下葉に多く、一般の肺がんが上葉に多いことと比較して対照的であるとされている。

しかし、外因性の肺がんには職業性のがん原性因子暴露に起因するもののほかに、例えば、喫煙のような非職業性の原因によるものが含まれるので、単にがんの組織型とか原発部位のみから直ちに職業性のがんであるか否かを判定することは困難である。

じん肺の程度と肺がん合併頻度の関連については、じん肺病変の程度が高度なものよりもむしろ中等度または軽度のじん肺に肺がん合併が多いとする報告がある。

これは、一見すると粉じんの吸入量と肺がん合併頻度との間に量反応関係を欠いているようにみえるが、じん肺における病変は極めて多彩であり、重症例は比較的若年で死亡すること等を考えると、直ちに両者の間の量反応関係を否定し去ることはできない。

じん肺に合併した初期の微小がんの病理組織学的観察では、けい症性病変とがん病巣との間の密接な接触性と病理組織学的変化の連続性を認めた報告があり、厳密な瘢痕がんの病理学的診断基準に適合する例もあげられている。一方、じん肺性変化には気管支上皮細胞の増殖像、特に異型増殖像を伴うことがしばしばあり、慢性気管支炎、細気管支炎等を背景にした肺間質性線維症では末梢気道上皮の腺様増殖が多く、これらが発がんの母地となり得るとする見解がある。

しかし、現状では、病理形態学的立場からじん肺性変化が肺がんの発生母地となり得ると断定するには証拠が乏しい。

(三) じん肺と肺がんの合併頻度

(1) じん肺剖検例の検討

剖検材料による肺がん合併頻度に関する内外の報告には、頻度が高いとするものと高くないとするものがあるが、一九六〇年(昭和三五年)以降の報告に限ってみると、高い合併頻度を指摘するものが多い。

わが国のじん肺専門病院において療養中に死亡したじん肺(けい肺が主体である。)症例の剖検結果は、概ね一〇ないし一六パーセントの肺がん合併率を示しており、けい肺を主体とするじん肺患者に高頻度に肺がんが合併している現象は、全国的な拡がりにおいてみられる可能性のあることが示唆された。

(2) 一般医療機関におけるじん肺合併肺がん

じん肺患者の医療を担当する全国一般病院施設における外来、入院患者の調査結果では、初診時に肺がんの症候のあったものが五六パーセントを占めていたが、全体として肺がんの合併頻度は高い傾向にあった。

(四) 疫学的情報

一般に高年齢に至って発症する肺がんについて疫学的研究を行うには、じん肺患者が職場を離れたり、居住地を変えたのちも長期間にわたって追跡することが必要であり、その実施には著しい困難を伴うため、現在得られている疫学的情報は極めて限られたものでしかない。また、これらは、調査方法が種々異なっており、母集団が明確でないものが多い。そのため、じん肺と肺がんの関連性を論ずる場合に大きな支障となっている。

今後可及的速やかにpopulation based studyを実施することにより、肺がん合併の頻度分布に関する正確な資料を収集するとともに、けい酸又はけい酸塩粉じんのもつがん原性についての検討やけい肺自体が示す前がん病変に関する医学的な意義の解明が重要と思われる。

(五) じん肺合併肺がんに対する行政的保護措置の必要性

じん肺と合併肺がんの因果性の立証については、今日得られている病理学的並びに疫学的調査研究報告の多くをもってしても、なおかつ病因論的には今後の解明にまたねばならぬ多くの医学的課題が残されており、このことは、わが国のみならず諸外国においても同様の傾向にあると考えられる。

しかし一方、わが国のじん肺と肺がんの合併の実態は、じん肺剖検例並びに療養者において高頻度であることが明らかである。また、肺がんはじん肺進展過程の様々な次元においてそうした傾向の合併が認められることを示唆した報告がある。しかも、じん肺合併肺がん患者を取り扱った一般医療機関の臨床医師により、①肺がんの早期診断がしばしば困難となる、②肺がんの内科的、外科的適応が狭められる、③じん肺と肺がんの両者の存在のもとでは一層予後を悪くする等種々の医療実践上の不利益が指摘されている。加えて、これら臨床医師の多くがかかる患者に対して何らかの行政上の保護措置の必要性を指摘していることは看過できない。

したがって、じん肺に合併した肺がん症例の業務上外の認定に当たっては、これらのじん肺り患者の病態と予後にかかわる実態が十分に考慮され、補償行政上速やかに何らかの実効ある保護施策がとられることが望ましい。

3  労災病院プロジェクト研究結果報告(甲四〇)

専門家会議がじん肺症例に高い率で肺がんが発生する危険を伴っている可能性を指摘したことを踏まえて、千代谷を主任研究者とするじん肺と肺がんの関連に関するプロジェクト研究班(以下「プロジェクト研究班」という。)は、より広く医療機関における医学情報を収集して、じん肺と肺がんの関連を明らかにすることを意図し、一九七九年(昭和五四年)一月から一九八三年(昭和五八年)一二月までの五年間に全国各地の一一の労災病院において労災保険によって療養していた男子じん肺患者三三三五例を登録し、コホー卜調査の手法を取り入れてその経過を追跡した。

その結果を要約すると以下のとおりである

(一) 標準化死亡比を示標にして一般男子人口の肺がん死亡率と比較すると、対象集団は4.1の高値を示しており、肺がん死亡の超過危険を示唆した。

(二) 胃がん及び胃がん肺がんを除く悪性腫瘍の標準化死亡比は、それぞれ1.1で、ほぼ一般男子人口の死亡率と同じ水準を示して、調査対象が悪性腫瘍に関して特定の偏りを持つ集団ではないことを示していた。

(三) 喫煙習慣は標準化死亡比を相加的に高める傾向が見られたが、非喫煙群においても4.2を示しており、調査集団の高い標準化死亡比の主因が喫煙習慣に依存するものではないことを窺うことができる。

(四) じん肺に合併した肺がんの組織型は、一般男子人口における肺がんのそれと比較して、わずかに類表皮がんが優勢の傾向を示したが、著明な差異ではなかった。また、粉じん作業期間の長さ及び胸部エックス線写真のじん肺進展度から推定される粉じん暴露量との間に、量反応関係を示さなかった。さらに、じん肺に合併した肺がんによる死亡年齢が、一般男子人口のそれよりも若年に傾く傾向も見られなかった。これらはいずれも、けい酸粉じんそのものの発がん性を否定する見解を支持するものと考えられた。

4  大阪におけるけい肺認定患者のコホート研究(甲七六)

プロジェクト報告が発表された後、大阪府立成人病センター調査部の森永謙二(以下「森永」という。)らは、一九七二年(昭和四七年)から一九七七年(昭和五二年)までの六年間に大阪府下でじん肺管理区分が管理四と決定されたか合併症のため療養を要するとされた男子じん肺患者二四八人を対象に一九八七年(昭和六二年)一二月末まで観察した結果を発表した。

その概要は以下のとおりである。

観察対象者二四八人のうち、認定後三年以内に死亡した二一人を除く二二六人について、標準化死亡比を算出したところ、全結核9.79、肺がん3.70、呼吸器疾患4.11で有意の過剰死亡が認められた。全対象者のうち、肺がん死亡者は一五名で、その病理組織型は、不明二名を除く一三名中、扁平上皮がんが最も多く八例、次いで小細胞がん及び腺がん各二例、未分化がん一例であった。喫煙歴の判明している一一人はすべて喫煙歴を有していた。以上の結果から、けい肺患者には喫煙と関連の深い肺がんの過剰死亡が観察されたが、その相対危険度は3.7と大きく、喫煙以外の因子の関与も疑われた。

5  じん肺り患者の病後の経過に関する調査研究委員会による報告(乙七一)

じん肺患者は一般人よりも肺がん等の特定の疾病との関連性が強いとの指摘がみられるようになってきたこと、第五五回じん肺審議会においても「じん肺にり患していた者の死因について、可能な範囲において医学的疫学的調査を行うよう検討すること」という旨の議決がなされたことから、平成二年ころ、じん肺患者に特に関連性の強い疾病並びにそれら疾病とじん肺との関係を検討すると共に、じん肺患者の病像を明らかにし、じん肺患者の健康管理等に対し更に積極的な知見を得ることを目的として、じん肺り患者の病後の経過に関する調査研究委員会(以下「調査研究委員会」という。)が設置された。調査研究委員会は、本委員会一〇名、専門委員会九名の専門家によって構成され、本委員会委員長は千代谷であり、専門委員会委員長は岩見沢労災病院の大崎饒(以下「大崎」という。)であった。調査研究委員会は、三年計画でじん肺患者の病像及びその死因についての調査研究を実施し、平成五年、その結果を報告した。

右報告の概要は以下のとおりである。

(一) 調査、解析結果の概要

(1) 労災病院において療養中のじん肺患者の調査

じん肺の胸部エックス線写真の進展度と、肺がん有病率あるいは死亡者の中に占める肺がん死亡の割合の間には、統計学的に有意な関係を認めなかった。また、死亡したじん肺症例の中に占める肺がん死亡の割合は、日本人死亡者における肺がん死亡の割合と異ならないという解析結果が得られた。

(2) 傷病年金受給者の調査

この調査においては、肺がんの観察死亡数が一八六であり、SMR(標準化死亡比)は2.14で、肺がん死亡のリスクが有意に上昇していた。これは、対象者全員が喫煙者であったと仮定して計算したレベルを越えており、観察されたリスクの上昇を喫煙率の違いだけで説明することはできないと考察された。

(1)及び(2)の各調査はほぼ同じ背景因子をもつ集団を対象にして行われたと理解されるにもかかわらず、(1)の解析ではリスクの上昇が証明されず、(2)の解析では肺がんのリスクが高いことを積極的に肯定できるという異なった解析結果が得られたのは、(1)の調査においては調査の対象数及び期間が限られていたのに対して、(2)の調査は入手された情報の精度が高く、対象集団の大きさも十分であったからであると考えられた。

調査研究委員会が実施した調査解析を通していえることは、じん肺と肺がんとの間に何らかの因果関係があるとしても、その強さという点からみれば比較的弱い関係にとどまるものであろうということである。このために、調査対象の選択や解析方法の違いによって肯定的な結論が得られたり、得られなかったりするのであろうし、国外の研究が指向するすう勢をなお見定めがたいのも、両者の関係の弱さに起因するものであろう。

(二) 文献調査

コホート調査については、国外における少数の例外を除き、じん肺に合併した肺がん死亡のリスクは、一般集団における肺がん死亡のリスクに比較して有意に高いと結論する報告が多かった。

症例対象調査については、わが国においては評価の対象にすべき報告が行われておらず、得られた国外文献の数も少数に限られた。そのうち有意差を認める報告はイタリアから二題あるが、むしろ有意差を認めないという見解が支配的であると考えた。

喫煙習慣が標準化死亡比を高める方向に影響するとの報告は多いが、同時に非喫煙のじん肺患者でも標準化死亡比が上昇することが指摘されている。

6  メタアナリシスの試み(甲一一一の一)

調査研究委員会の報告が発表された後、津田敏秀らは、じん肺患者における肺がんの多発に関する問題についてわが国では疫学的に十分な評価がなされているとはいえないという問題意識の下に、これまでに発表された研究を定量的に整理した。その結果は別紙一のとおりである。

7  IARCによる評価(甲九六、乙五六の一及び二、乙六〇、弁論の全趣旨)

IARCは、WHO(世界保健機関)に所属する研究所で、一九六五年(昭和四〇年)の設立以来、ヒトのがんの原因解明と予防のために疫学研究と実験研究を行ってきており、化学物質の発がん性に関する研究機関等の中では、国際的に最も権威があるものの一つであるとされている。

IARCによると、結晶性シリカは、実験動物に関しては発がん性の十分な証拠があり、ヒト(疫学調査)に関しては発がん性の限定された証拠があるという。そして、IARCは、一九八七年(昭和六二年)の時点における総合評価として、結晶性シリカをグループ2A(「ヒトに対して恐らく発がん性がある」というカテゴリー)に分類した。なお、右総合評価では、ヒトに対して発がん性の十分な証拠があると認められた化学物質は、グループ1(「ヒトに対して発がん性がある」というカテゴリー)に分類されている。

8  その他の機関等による評価(甲九六、弁論の全趣旨)

米国NTP(国家毒性プログラム)、EC(欧州共同体)及び米国EPA(環境保護庁)は、IARC同様、権威があり、他への影響も大きく、比較的多くの発がん性物質を分類している代表的機関等である。このうち米国NTPは、一九九一年(平成三年)、結晶性シリカを「合理的に発がん性物質であることが知られている」(グループb)と評価したが、EC及び米国EPAは、いずれもシリカの発がん性について評価を発表していない。また、その他の代表的機関等のうち、日本産業衛生学会は、平成三年三月、二酸化けい素(結晶性)を「人間に対しておそらく発がん性があると考えられる物質」の中で「証拠がより十分な物質」(第二群A)と評価したが、ACGIH(産業衛生専門家会議)、ILO(国際労働機関)及びDFG(ドイツ研究審議会)は、いずれもシリカの発がん性について評価を発表していない。

9  J・C・マクドナルドの見解(乙五七の一及び二)

J・C・マクドナルドは、一九八八年(昭和六三年)にピッツバーグで開催された第七回国際じん肺会議において、IARCが結晶性シリカの発がん性を評価するために検討した疫学調査を再検討した結果を発表した。

それによると、各疫学調査は、疫学的所見の一貫性を欠いていること、一般にリスク推定値が低いこと、暴露反応が調査されていないこと、タバコなど他の発がん物質による交絡の可能性が高いことなどの問題があり、もっと多くの、もっと確実な証拠がない限り、結晶性シリカの暴露がヒトにおいて肺がんを引き起こすという結論を出すのは早計であろうという。

10  R・サラッチらの見解(甲九三の一及び二)

IARCの分析疫学部に所属するR・サラッチらは、一九九〇年(平成二年)、「シリカ・ダストへの暴露と肺がんの関係に関する疫学的様相」と題する論文を発表し、その中で大略次のように述べている。

シリカ・ダストに潜在的に発がん作用があるかどうかについて、次の三つの主要な発見が現在の認識の基本となっている。①シリカは、実験による仮説では発がん物質である。②肺がんになる危険性はシリカに暴露した労働者の中に増大し、既知の発がん物質に暴露した労働者だけに限られるわけではない。③別々に調査してみると、調査対象者のうちけい肺が進んだ暴露労働者に肺がんになる危険性が集中している。

以上によると、けい肺と肺がんとの間の因果関係の問題について、次の二つの仮説が考えられるが、どちらの仮説も十分には検討されてこなかった。

第一に、シリカに暴露することが直接けい肺と肺がんの原因になり、けい肺患者の中に肺がんになる高い危険性が集中しているのは明らかに暴露量が多い結果である、という仮説が考えられる。この仮説は、簡潔明瞭ではあるが、二つの病理学的過程が全く一致しているという例外的な状態を前提としている。

第二に、シリカに暴露したことは、けい肺の進展に伴って肺がんになる危険性が増える間接的な原因であり、けい肺は、シリカを含もうが除外しようが、他の発がん物質に暴露した影響が大となる病理学的状態である、という仮説が考えられる。この仮説によると、けい肺の病理学的状態が発がん過程を助長する影響を持つのであって、シリカがそれ自体発がん物質であるか否かということは問題ではない。

11  第八回国際職業性肺疾患会議における議論の状況(乙六一)

ILO(国際労働機関)は、一九九二年(平成四年)九月、第八回国際職業性肺疾患会議を主催した。この会議に出席した大崎は、「じん肺に肺がん合併が多いのか、あるいは粉じん非暴露者の肺がん発生と変わりないのかの結論は未だ出ていない。今後も、遊離けい酸の発がん性の有無の基礎的研究や他の危険因子、例えば喫煙の影響の関与などを症例を集積し解析する必要があろう。」と報告している。

四  喫煙と肺がん発生との間の疫学的因果関係(乙三三、六四)

喫煙と肺がん発生との間の疫学的因果関係については、関連の一貫性、強さ、時間的関係、整合性及び特異性という五つの疫学的基準(以下「古典的基準」という。)に基づいて論じられている。

1  関連の一貫性

喫煙と肺がんとの関連は、国別、民族別、世紀別にみても矛盾なく認められる点で、一貫性は高いといえる。

2  関連の強さ

喫煙と肺がんとの関連に関する主要なコホート研究の結果は、別紙二の表1記載のとおりである。また、喫煙本数が増加するにつれて相対危険度が増加していくことから、両者の関連には量反応関係が認められる(別紙二の表2参照)。

3  関連の時間的関係

まず原因と考えられる喫煙があり、その後肺がんが発生するという時間的な前後関係は、コホート研究によって明らかである。

4  関連の整合性

肺がんの頻度は一般に喫煙者率の低い女子よりも喫煙者率の高い男子で高いこと、動物実験においてたばこ煙濃縮物では発がん性が確認されていること、禁煙した場合に発がんの危険が少なくなることなど、種々の所見の整合性はよい。

5  関連の特異性

肺がん患者が必ずしもすべて喫煙者とは限らないという点で、特異度が高いとはいえないが、他の生活習慣にかかわる因子と比べると、喫煙と肺がんの関連性ははるかに強い。

以上のような検討の結果、喫煙と肺がん発生との間に因果関係があることはほぼ明らかであるとされている。

なお、肺がんの組織型別に喫煙との関連性をみると、特に扁平上皮がん及び未分化がんと喫煙との強い関連性が示されている。

五  照男の生活歴等

1  照男は、大正一〇年一〇月二三日生まれの男性である(争いがない)。

2  照男は、一八歳(昭和一四年)ころから、一日当たり三〇本ないし四〇本程度の喫煙習慣をもつようになった(乙四〇、四一の一)。

なお、照男の喫煙の程度については、右認定の本数よりも少なかったとする証拠(証人遠藤、原告本人)もあるが、これらは本件訴訟提起後の証言ないし供述であり、照男が医師の問診に自ら回答した結果(乙四〇、四一の一)に比し、信用性の低いものである。

3  照男は、昭和二六年九月から昭和五五年三月までの間、別紙三記載のとおり、主に坑夫として粉じん作業ないしこれに類する作業に従事した(乙一四)。

4  照男は、昭和五〇年ころから体に変調を来し、せきが多く出るようになった(原告本人)。

5  照男は、昭和五五年ころからせき、たんがひどく出るようになったので、徳島健生病院で診察を受けたところ、じん肺症と診断された(原告本人)。

このとき照男を診察した川内茂徳医師は、じん肺健康診断結果証明書の医師意見欄に、「エックス線像で全肺野に拡がる小粒状陰影あり。気管支炎の合併がみられ、(せき、たんが)持続し、パーセント肺活量、一秒率の低下を認め、安静加療を要する状態」である旨記載している(乙一)。

6  その後、照男は、徳島健生病院に入院ないし通院をして、じん肺症等の疾病の治療を受けるようになった(弁論の全趣旨)。

なお、この間、徳島労働基準局長は、昭和五五年九月九日付けで、照男についてじん肺管理区分を管理三ロ(エックス線写真の像第三型)と決定するとともに、合併症(続発性気管支炎)にかかっていると認めている(乙二)。

7  照男は、遅くとも昭和五六年一一月二〇日までには、右肺上葉部にがんを生じていたが、徳島健生病院の西山昌伸医師(以下「西山医師」という。)は、照男の肺のエックス線写真の像にじん肺による粒状影が極めて多数あったために、昭和五六年一一月二〇日ないし昭和五七年六月五日の時点では、がんを発見することができなかった(乙一四、証人西山)。

8  西山医師は、昭和五六年一二月一五日、照男のために労働者災害補償保険診断書(じん肺用)を作成しているが、それには、照男は、寒冷期には入院して呼吸リハビリテーションが必要となること、気管支炎の増悪による肺機能の低下が考えられるため今後入院を要することなどが記載されている(乙四二)。

9  西山医師は、昭和五七年一一月二二日、照男に対し精密肺機能検査を実施した(乙一四)。

その結果、照男の負担を軽くするために気管支拡張剤を投与していた(その結果、肺機能は高まった)にもかかわらず、パーセント肺活量は61.9パーセントであったこと(パーセント肺活量が六〇パーセント未満であれば、じん肺管理区分決定上「著しい肺機能障害がある」と判定される。)、臨床症状としてせきやたんが非常に多く、障害を強く受けていたこと(照男は、診察時に話をしていてもゼーゼーゼーゼーという状態で、ゴホンゴホンとせきをしていた。)などから、西山医師は、照男のじん肺は、じん肺管理区分でいう管理四に極めて近い状態であると考えた(甲八五、証人西山)。

しかしながら、同医師は、労災補償行政上、右の程度ではいわゆる随時申請(じん肺法一五条)をしても、管理四と決定されることはないと考え、照男をして、随時申請の手続きを採らせなかった(証人西山)。

10  西山医師は、昭和五八年一月八日、照男の肺のエックス線写真の像により、右肺上葉部に一五ないし二〇ミリメートルの結節状陰影を認め、この時点で肺がんを強く疑ったので、徳島大学医学部第二外科に対して照男を紹介し、試験開胸ないし手術をするよう依頼した(乙一四、証人西山)。

11  照男は、昭和五八年四月一五日、徳島大学医学部第二外科主任教授井上権治らによって、右肺がん(小細胞がん)と診断されたが、照男の肺機能障害の程度が強かったために、肺の右上葉部を切除したのでは日常生活にも耐えられない可能性があったこと、小細胞がんは悪性が高く、必ずしも手術が有効ではないこと、手術をすることによって更にじん肺症が悪化して肺機能が低下し呼吸困難が増悪するおそれがあったことなどから、手術は行われなかった(甲四の二、三、証人西山)。

12  照男は、昭和五八年五月四日から八日、同月三〇日から六月一日の二度にわたって、徳島大学医学部第二外科において化学療法を受けた結果、肺がんこそいったん縮小したものの、同年七月四日の徳島健生病院における検査の結果、肺胞気動脈血酸素分圧較差の値が48.9であり、強い肺機能障害が認められた(照男は当時六一歳であったから、右の値が36.61を超える場合には、じん肺管理区分決定上は「著しい肺機能障害がある」と判定される。)(甲四の二、三、甲八五、乙五)。

13  その後、照男は、化学療法を継続しつつ入退院を繰り返していたが、昭和五九年六月ころには右肺がほとんど無気肺化し、同年七月六日、肺がんによる呼吸不全のために死亡した(甲六の一)。

14  照男の遺体は、徳島大学医学部病理学教室において剖検され、その結果、照男のじん肺がけい肺であること、照男の肺がんが右上葉部に原発した小細胞がん(未分化がん)であることが確認された。右剖検の記録には、照男の肺の病理学的所見として「既存の肺には硝子化した線維が同心円状、渦巻状に配列し、炭粉沈着を伴ってけい肺結節を形成する。周囲の肺実質は気腫状である。」とある(甲四三)。

なお、西山医師が作成した照男の死亡診断書には、直接死因は呼吸不全、その原因は肺小細胞がん、その原因はじん肺症との記載がなされている(乙一四)。

六  以上の事実を前提に判断する。

1  照男のじん肺と肺がん発生との間の因果関係について

本件において、照男のじん肺が業務上の疾病であること及び照男が肺がんによる呼吸不全のために死亡したことはいずれも当事者間に争いがないから、照男の肺がんがじん肺に起因して発生したこと(じん肺と肺がん発生との間の因果関係)が認められるならば、照男の死亡は業務上のものであるということになる。

ところで、訴訟上の因果関係の立証は、一点の疑義も許されない自然科学的証明ではなく、経験則に照らして全証拠を総合検討し、特定の事実が特定の結果発生を招来した関係を是認しうる高度の蓋然性を証明することであり、その判定は、通常人が疑を差し挟まない程度に真実性の確信を持ちうるものであることを必要とし、かつ、それで足りると解するのが相当である(最判昭和五〇年一〇月二四日民集二九巻九号一四一七頁)。

したがって、照男のじん肺と肺がん発生との間の因果関係が認められるためには、じん肺が肺がんを発生させる病理学的な機序を明らかにする必要まではないが、通常人が照男の肺がんがじん肺に起因して発生したことを確信し得る程度の立証がなされる必要があり、単に照男の肺がんがじん肺に起因して発生した可能性があるという程度では足りないというべきである。

そこで、右の見地に立って、照男のじん肺と肺がん発生との間の因果関係の有無について検討する。

(一) じん肺と肺がん発生との間の疫学的因果関係

疫学的因果関係を判断するためには、できるだけ多くの疫学研究を総合的に検討する必要があるところ、じん肺(けい肺)と肺がん発生との間の因果関係に関する疫学研究は既に相当数発表されているにもかかわらず、それらを総合的に検討した上でじん肺と肺がん発生との間に疫学的因果関係があるとする専門的見解は、未だ明らかにされてはいない。その主たる理由は、標準化死亡比等の数値が専門家にとってじん肺と肺がんとの関連が強いと判断するためには必ずしも十分な有意性を持つものではないこと(ヒルの示した基準における強固な関連、古典的基準における関連の強さという点での問題)及び因果関係判断のための有力な所見である量反応関係が認められないこと(ヒルの示した基準における生物学的傾きのある関連、古典的基準における関連の強さという点での問題)にあるものと考えられる。このことは、じん肺と肺がんの関連性についての率比の推定値(別紙一)と喫煙と肺がんの関連性についての死亡率比の値(別紙二)とを比較することによっても裏付けられるところである。

たしかに、プロジェクト研究班の調査や森永らの調査は、専門家会議が今後の正確な疫学的情報の収集の必要性を強調したことを受けて実施されたものであって、それ自体の信頼性は高いものであると認められるが、疫学的に研究結果から因果関係を推論する際には多くの条件を検討することが必要である以上、それだけで因果関係の有無を判断することはできないといわざるを得ない。また、じん肺から肺がんが発生する機序に関する仮説(特にけい肺の病理学的状態が発がん過程を助長するという仮説)の存在は、ヒルの示した基準のうちもっともらしい関連ないし整合性のある関連という基準を満足するものであるようにも思われるが、専門家会議が「病理形態学的立場からじん肺性変化が肺がんの発生母地となり得ると断定するには証拠が乏しい」と指摘し、あるいはR・サラッチらが右仮説について「十分には検討されてこなかった」と述べているように、右仮説について必ずしも専門家の間で議論が尽くされているとはいえない状況にあることも事実である。さらに、IARCが結晶性シリカをグループ2A(「ヒトに対して恐らく発がん性がある」というカテゴリー)に分類し、グループー(「ヒトに対して発がん性がある」というカテゴリー)に分類しなかった理由は、実験動物に関しては発がん性の十分な証拠がある(したがってヒルの示した基準のうち実験的な証拠の存在という基準を満足し、古典的基準のうち関連の整合性という基準を満足する)が、疫学調査の結果を含めて総合的に検討した結果、結晶性シリカと肺がん発生との間に因果関係があるとまでは断定できなかったからであると認められる。

以上によると、現時点では、疫学的にみて、じん肺と肺がん発生との間の疫学的因果関係については、これが存在する可能性があるといい得るにとどまり、これが存在するとまで認めることはできない。

(二) じん肺合併肺がんの組織型及び原発部位について

この点については、専門家会議が「外因性の肺がんには職業性のがん原性因子暴露に起因するもののほかに、例えば、喫煙のような非職業性の原因によるものが含まれるので、単にがんの組織型とか原発部位のみから直ちに職業性のがんであるか否かを判定することは困難である」と指摘しているように、本件全証拠によるもじん肺合併肺がんの組織型及び原発部位について特異性があるとは認められない。

したがって、照男の肺がんが右上葉部に原発した小細胞がん(未分化がん)であることをもって、同人のじん肺と肺がん発生との間の因果関係を基礎付けることはできない。

(三) 照男の喫煙習慣と肺がんの因果関係について

疫学的には喫煙と肺がん発生との間に因果関係があるとされていること及び両者の関連には量反応関係が認められることに加えて、照男が一八歳ころから体に変調を来すまでの三〇年以上もの間一日当たり三〇本ないし四〇本程度の喫煙習慣をもっていたことからすると、照男の肺がんの発生原因が同人の喫煙習慣にあった可能性は否定できない。

そこで検討するに、疫学とは、人間集団を対象として人間の健康及びその異常の原因を宿主、病因、環境の各面から包括的に考究し、その増進と予防を図る学問であって、元来個々人の疾病の原因を究明するためのものではないから、疫学的にみて因果関係があるとしても当然には個々人の疾病の原因が明らかになるものではないのみならず、疫学的にみても現時点ではじん肺と肺がん発生との間に因果関係があるとまでは認められないこと、照男の肺がんの組織型及び原発部位もじん肺との因果関係を基礎付けるものではないこと、照男の肺がんの発生原因が同人の喫煙の習慣にあった可能性も否定できないことからすると、照男の肺がんがじん肺に起因して発生した可能性はあると認められるが、本件において照男の肺がんがじん肺に起因して発生したことについて、通常人が確信し得る程度に立証がなされているとはいえない。

以上によると、照男のじん肺と肺がん発生との間に因果関係があるとは認められず、これが認められることを前提とする原告の主張は理由がない。

2  照男の死亡の業務起因性について

原告は、照男の肺がんがじん肺に起因して発生したことが認められないとしても、照男の病状等からして同人の肺がんは業務上の疾病であると認めるべきであるから、照男の死亡は業務上のものであると主張するので、以下検討する。

前認定のとおり、局長通達によると、労災補償行政上、管理四で療養中の者及び管理四相当であると認められる者に発生した原発性の肺がんは、労働基準法施行規則別表第一の二第九号(その他業務に起因することの明らかな疾病)に該当する業務上の疾病として取り扱われる。そして、このような取扱いは、専門家会議がその報告書の中で、わが国ではじん肺症に肺がんの合併する頻度が一般人口における場合よりも高いこと並びに進展したじん肺症の病態の下では肺がんの早期診断が困難となること、治療の適用範囲が狭められること及び予後に悪影響を及ぼすこと等の医学的見解を明らかにしたことに基づくものであると認められる(乙一九)。

右の専門家会議が指摘した医学的見解にいうように、進展したじん肺症に合併した肺がんには医療実践上の不利益があることに鑑みれば、このような不利益がなければ、肺がんがより早期に発見され、適切な治療を施されて良好な経過をたどった可能性があるということができるから、進展したじん肺症に合併した肺がんについて具体的に右のような医療実践上の不利益が認められる場合には、右のような意味あいにおいて、右肺がんの病状の持続ないし憎悪とじん肺との間には因果関係があると認めるのが相当であり、したがって、右肺がんは、労働基準法施行規則別表第一の二第九号(その他業務に起因することの明らかな疾病)に該当する業務上の疾病であると認めるのが相当である。

翻って、局長通達による前記取扱いについてみても、ある疾病について、業務との因果関係が認められないにもかかわらず、一片の行政通達によって業務上の疾病であるとの取扱いをし、労災保険法に基づく保険給付をすることは、法解釈の域を超えることとなり、およそ不可能であるから、右取扱いは、決して、行政の裁量によって一部のじん肺患者のじん肺と肺がん発生との間の因果関係を擬制してなされているものではなく、進展したじん肺症に合併した肺がんに存する医療実践上の不利益に着目し、右の述べたような意味において、進展したじん肺症に合併した肺がんの病状の持続ないし憎悪とじん肺との間には因果関係があることを認めてなされているものと理解することができる。しかも、わが国ではじん肺症に肺がんが合併する頻度が一般人口における場合よりも高いことをも考慮すれば、右のような因果関係を認めてなされている局長通達による取扱いは、「労働者の福祉の増進に寄与することを目的とする」(労災保険法一条)法の趣旨にもかなうものであるということができる。

なお、局長通達は、管理四で療養中の者及び管理四相当であると認められる者に発生した原発性の肺がんだけを業務上の疾病として取り扱うものとしているが、じん肺管理区分は、本来粉じん作業に従事する労働者等の健康管理を行うためのものであるのみならず、管理四と管理三ロとの限界は実際上明確を欠くこともあり得る(照男の場合がまさにそうである。)ことからすると、局長通達の右管理区分に係る要件を充足しない場合であっても、じん肺に合併した肺がんであって前記のような医療実践上の不利益があるものについては、業務上の疾病であることを否定すべき根拠は何ら存在しないというべきである。

これを本件についてみるに、前認定のとおり、照男の肺がんは、同人の肺のエックス線写真の像にじん肺による粒状影が極めて多数あったために早期発見ができなかったこと、諸検査の結果及び臨床症状からして、じん肺と相まって著しい肺機能障害を惹起していたと認められること及びその肺機能障害の程度が強かったこともあって手術による治療を見合わせざるを得なかったことからすると、専門家会議が指摘した前記のような医療実践上の不利益を有するものであったことは明らかであるから、これを業務上の疾病と認めるのが相当である。

したがって、照男の死亡は業務上のものであるから、これが業務外であるとしてなされた本件不支給処分は違法であって取消しを免れない。

第四  結語

よって、原告の本訴請求は理由があるから、これを認容することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官裁判長佐藤修市 裁判官白井幸夫 裁判官柴田寿宏)

別紙一、二、三<省略>

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